2007年12月31日月曜日

ダイバーシティ時代の学びの姿勢を考える その①

「物怖じしない」は学ぶ窓を閉ざす。by 野上秀子(西武百貨店有楽町店店長)

「私の経験で言えば、教養はさまざまな人との出会いによって培われることも多いと思います。 出会いの中で、その人のどこを心に刻むのか、それは人によって異なります。 必要なのは、素晴らしさに気づく感性。 人は何も分かっていなければ、怖いものなどありません。 物怖じしない、ある意味利己的なコミュニケーションでは、人から学ぶための窓を閉ざしてしまいます。 人との出会いに真摯な謙虚さと緊張感を持つこと。 これはずっと大切にしていきたいですね。」

『Works No.85 ビジネスパーソンと「教養」』 「教養とは何か」、「教養を高める方法は」と聞かれて。

私がそうであるように、野上さんの“「物怖じしない」は学ぶ窓を閉ざす”という考え方に、多くの日本人は共感を覚えるのではないだろうか。 私も間違いなくそのうちの一人である。 ただ、海外、特にアメリカという、ある意味、日本とは対極にある国で学び、暮らしていると、日本の物の見方や考え方と違うシチュエーションに多く出くわす。 最近では、そういった状況を自分の中でうまく消化させるために、私の思考方法は、ますますContingency Theory (状況適応理論)にその活路を見出すようになっている。 つまり、日本的価値観を、一度他者の鏡を通して見つめ直し、それが普遍性があるものかどうかを確かめたい衝動に駆られる。

Contingency Theoryを簡単に説明すると、様々な異なる状況要因(contingency factors)により、同じ手法が同じような効果をもたらすとは限らない。 つまり、唯一絶対の方法は存在しないというスタンス。 HR(Human Resources)の分野では、リーダーシップ、組織論などでしばしば登場してくる、最も新しい部類の理論に該当する。

私も含めて、人は皆、自分、もしくは、自分が属するグループ・組織の考え方が、相手より優れていると考えがちである。 言い換えると、自分達のやり方が「ベスト・プラックティス」だと思い込み、結論付けたがる。 私もこの思考回路から抜け出すには相当苦労したし、いろいろな試行錯誤も繰り返した。 正直、今も完全に抜け出せたわけではないし、そうなることは、人間が「素」で生きている限り、逆に不可能だとさえ考えている。 (この議論については、人間はどうして偏見、差別を繰り返すのかの問題に関連づけて次回あらためて考えてみたいと思う。) ただ、それを回避するための、一つの方向性として、contingency theory的な発想が役立つのではないかと、ここでの経験を通して考えるようになった。 

こちらにいると、「どうしてアメリカ人はこうなんだ?」という不平・不満に、自分の内面も含め、直面することがこれまで少なくなかった。 ただこれらの不平・不満の中身を注意深く見ていくと、恐ろしく断片的、一面的な行動なり、仕組みなりを理由に、批判していることに気付かされる。 つまり、それらが巨大な社会システムの中に、ある程度の整合性を持って組み込まれた一つの仕組みであり、そこから発生する一つのアウトプットだという見方が欠落してしまっているのである。 それをお互い部分的に取り出して、どっちが良いの悪いのって議論しているに過ぎない、ということになかなか気付かないのである。

こういう物の見方にたどり着くためには、その国に出向き、その国の人たちと、ある程度時間をかけた交わりを持つことが必要不可欠なんだと思う。 そこで何に気付くのかというと、当たり前のことだが、彼らが自分と同じ人間なんだということに。 ただ大事なことはそれを「身体」を通して感じられるかどうかにある。 そうなると、不思議と彼らの行動や思考パターンが、悪気のないものとして感じられるようになってくる。 つまり、それらを、彼らの生まれ育った国のあらゆるシステムや仕組みから生み出された当然の帰結として理解するようになるのである。 もっと言うと、自分ももし、その土地で生まれ育ち、「一生懸命」生きたならば、間違いなくそうなると思えるようになってくる。 そういう状態になるためには、彼らと、日々顔を付き合わせ、それぞれの「良さ」を感じ伝え合う時間なり、作業を通して、お互いの人間的な良さを、たくさん感じ受ける必要があると思うのである。 つまり、「イメージの付き合い」から「生身の、顔の見える付き合い」へのシフト、これが肝の経験のような気がする。 

最近、日本のマスコミで多く見られる隣国に対する、異常なまでにヒステリックな議論を見ていると、私がここでの体験を通して学んだことがまるっきりオーバーラップしてくる。 つまり、相手をイメージ化し、さらに相手の局所を一生懸命駄目出しして、突っついているのである。 2年間の海外留学をおすすめしたいものである。^^

話が脱線に次ぐ脱線で、大分本筋から遠ざかってしまったようだが、ここで野上さんのお話へと論を戻したいと思う。 

私がこちらの教育システムに触れて一貫して感じるのは、こちらの学生は皆一様に「物怖じしない」という事実。 ここからが大切なポイントなのだが、だからと言って、決して傲慢で、利己的なコミュニケーションをしているようにも見えないのである。 自分の考えは自信をもってはっきりと周りに伝えるのだが、誰かがさらに良い意見を出して、それがもっと良いものだと感じられれば、意固地になることなく、すぐに方向転換する柔軟性を持ち合わせているのである。 これは私の個人的な体験に過ぎないのかと思い、他のアジアの国からの留学生仲間に聞いてみたところ、彼らも同じように感じていた。  

また、一年生の最初の頃は、クラスの発言の中にも、やや的外れなもの、あまり参考にならないものも多かったように感じるのだが、一年目が終わり、それぞれに学びが蓄積されてくると、その発言内容が飛躍的に洗練されていることに気付く。 変わらないのは、彼らが一様に物怖じしていないということだけ。 

つまり、物怖じしないことと、謙虚な学びの姿勢を維持することは両立できるのではないだろうか。 学びに対する謙虚な姿勢は、学びに対するあくなき好奇心が先であり、謙虚でいようと自分を律することで担保されるものではないのではなかろうか。 

こんなことを考えてみる。 もし、野上さんが過去に多く出会った芸術家や美術家の「教養人」の方々が、彼女に対して、物怖じすることを善とするかのような、態度を示していなかっただろうかと。 つまり、自分は「知っている人」で、あなたは「知らない人」といった、目に見えない境界線は引かれていなかっただろうかと。 つまり、その目安としては、安心して「バカ」な質問ができない状態がそれに相当するのではなかろうか。

こちらでは、謙遜をこめて、教授に対して「バカな質問に聞こえるかもしれませんが」などと、枕詞を使うと、逆に「この世の中にバカな質問など存在せん。」と一喝される。 そして、皆一様に、こちらが理解できるまで、何度も言葉を変えながら、辛抱強く時間をかけて説明しようとしてくれる。 

なぜアメリカのものがこうも多く、グローバルに市民権を勝ち得ているのだろうか。 世界の公用語としての英語のパワーは、決して否定のできない大きな存在であろう。 がしかし、このような「分からない人たち」の目線に立って、物事を組み直そうという努力なり姿勢、つまり、アメリカの文化的特徴がこれらを可能にしているのでないかとも考えてみるのである。

日本でも最近、若手アーティストたちが、美術や芸術を分かりづらいもの、高尚なものから、もっと生活に身近なもの、一般の市民にもっと理解しやすいものに創り変えようとする動きが見られる。 もちろん、すべての芸術が大衆に迎合する必要はないと思うが、このような流れが適度にあった方が、経済的側面からだけでなく、いろいろと望ましいのではなかろうか。 なぜなら、大衆との接点・接触を通して、新しいものがクリエートされる可能性も否定できないのであるから。

最後に、これまで、こちらで多くのクラスを体験してきたが、学びの多かった最も印象に残る授業は? またその要因は何かと尋ねられたら、私はこう答えるだろう。 

クラスのメンバー全員がそれぞれの個性を物怖じせずにさらけ出し、他はそれを認め、それを触媒としてさらに議論を発展させていく。 つまり、授業は、その場に居合わせた皆の協力で創り上げているといった感覚。 教授はそれをコントロールをしようとするのではなくて、知識と経験に基づいて、生徒たちがさらに深い議論ができるよう、その枠組み、およびいろいろな仕掛け作りを通して、ファシリテーター役を演じる。 

そこには「知っている人」と「知らない人」といった目に見えない境界線は殆ど存在しないのである。

私は野上さんの言う「教養」が何を指しているのかまだ定かではない。 つまり、学びは学びであっても野上さんの「教養」と、私が今学んでいるものの次元が異なる可能性も否定できないと考える。 

少し逃げ腰の結論に聞こえるかもしれないが、あえてここでcontingency theoryを持ち出したい。^^
つまり、野上さんの言う「教養」を身に付ける場合には、「物怖じ」が欠かせないファクターなのかもしれないが、私がこちらで体験している「学び」の場合には、「物怖じしない」ことで、よりプラスの収穫があるように感じられるという結論に。

今ふと思ったのだが、今年、日本全国で、海パン姿のお笑い芸人による、何でもかんでも「そんなの関係ねえ!」が、一大旋風を巻き起こしたと聞いた。 ある意味、この超利己的コミュニケーションの風潮を戒めるため、Worksさんによる、「物怖じ」と「教養」を組み合わせた一種のアンチテーゼ編集だった可能性も否定できないと。 つまり、ここでの結論も、知ってか知らずか、主張と時事、社会状況とが相互作用し合うといった意味においてcontingencyなのである。

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