2007年12月31日月曜日
ダイバーシティ時代の学びの姿勢を考える その①
「私の経験で言えば、教養はさまざまな人との出会いによって培われることも多いと思います。 出会いの中で、その人のどこを心に刻むのか、それは人によって異なります。 必要なのは、素晴らしさに気づく感性。 人は何も分かっていなければ、怖いものなどありません。 物怖じしない、ある意味利己的なコミュニケーションでは、人から学ぶための窓を閉ざしてしまいます。 人との出会いに真摯な謙虚さと緊張感を持つこと。 これはずっと大切にしていきたいですね。」
『Works No.85 ビジネスパーソンと「教養」』 「教養とは何か」、「教養を高める方法は」と聞かれて。
私がそうであるように、野上さんの“「物怖じしない」は学ぶ窓を閉ざす”という考え方に、多くの日本人は共感を覚えるのではないだろうか。 私も間違いなくそのうちの一人である。 ただ、海外、特にアメリカという、ある意味、日本とは対極にある国で学び、暮らしていると、日本の物の見方や考え方と違うシチュエーションに多く出くわす。 最近では、そういった状況を自分の中でうまく消化させるために、私の思考方法は、ますますContingency Theory (状況適応理論)にその活路を見出すようになっている。 つまり、日本的価値観を、一度他者の鏡を通して見つめ直し、それが普遍性があるものかどうかを確かめたい衝動に駆られる。
Contingency Theoryを簡単に説明すると、様々な異なる状況要因(contingency factors)により、同じ手法が同じような効果をもたらすとは限らない。 つまり、唯一絶対の方法は存在しないというスタンス。 HR(Human Resources)の分野では、リーダーシップ、組織論などでしばしば登場してくる、最も新しい部類の理論に該当する。
私も含めて、人は皆、自分、もしくは、自分が属するグループ・組織の考え方が、相手より優れていると考えがちである。 言い換えると、自分達のやり方が「ベスト・プラックティス」だと思い込み、結論付けたがる。 私もこの思考回路から抜け出すには相当苦労したし、いろいろな試行錯誤も繰り返した。 正直、今も完全に抜け出せたわけではないし、そうなることは、人間が「素」で生きている限り、逆に不可能だとさえ考えている。 (この議論については、人間はどうして偏見、差別を繰り返すのかの問題に関連づけて次回あらためて考えてみたいと思う。) ただ、それを回避するための、一つの方向性として、contingency theory的な発想が役立つのではないかと、ここでの経験を通して考えるようになった。
こちらにいると、「どうしてアメリカ人はこうなんだ?」という不平・不満に、自分の内面も含め、直面することがこれまで少なくなかった。 ただこれらの不平・不満の中身を注意深く見ていくと、恐ろしく断片的、一面的な行動なり、仕組みなりを理由に、批判していることに気付かされる。 つまり、それらが巨大な社会システムの中に、ある程度の整合性を持って組み込まれた一つの仕組みであり、そこから発生する一つのアウトプットだという見方が欠落してしまっているのである。 それをお互い部分的に取り出して、どっちが良いの悪いのって議論しているに過ぎない、ということになかなか気付かないのである。
こういう物の見方にたどり着くためには、その国に出向き、その国の人たちと、ある程度時間をかけた交わりを持つことが必要不可欠なんだと思う。 そこで何に気付くのかというと、当たり前のことだが、彼らが自分と同じ人間なんだということに。 ただ大事なことはそれを「身体」を通して感じられるかどうかにある。 そうなると、不思議と彼らの行動や思考パターンが、悪気のないものとして感じられるようになってくる。 つまり、それらを、彼らの生まれ育った国のあらゆるシステムや仕組みから生み出された当然の帰結として理解するようになるのである。 もっと言うと、自分ももし、その土地で生まれ育ち、「一生懸命」生きたならば、間違いなくそうなると思えるようになってくる。 そういう状態になるためには、彼らと、日々顔を付き合わせ、それぞれの「良さ」を感じ伝え合う時間なり、作業を通して、お互いの人間的な良さを、たくさん感じ受ける必要があると思うのである。 つまり、「イメージの付き合い」から「生身の、顔の見える付き合い」へのシフト、これが肝の経験のような気がする。
最近、日本のマスコミで多く見られる隣国に対する、異常なまでにヒステリックな議論を見ていると、私がここでの体験を通して学んだことがまるっきりオーバーラップしてくる。 つまり、相手をイメージ化し、さらに相手の局所を一生懸命駄目出しして、突っついているのである。 2年間の海外留学をおすすめしたいものである。^^
話が脱線に次ぐ脱線で、大分本筋から遠ざかってしまったようだが、ここで野上さんのお話へと論を戻したいと思う。
私がこちらの教育システムに触れて一貫して感じるのは、こちらの学生は皆一様に「物怖じしない」という事実。 ここからが大切なポイントなのだが、だからと言って、決して傲慢で、利己的なコミュニケーションをしているようにも見えないのである。 自分の考えは自信をもってはっきりと周りに伝えるのだが、誰かがさらに良い意見を出して、それがもっと良いものだと感じられれば、意固地になることなく、すぐに方向転換する柔軟性を持ち合わせているのである。 これは私の個人的な体験に過ぎないのかと思い、他のアジアの国からの留学生仲間に聞いてみたところ、彼らも同じように感じていた。
また、一年生の最初の頃は、クラスの発言の中にも、やや的外れなもの、あまり参考にならないものも多かったように感じるのだが、一年目が終わり、それぞれに学びが蓄積されてくると、その発言内容が飛躍的に洗練されていることに気付く。 変わらないのは、彼らが一様に物怖じしていないということだけ。
つまり、物怖じしないことと、謙虚な学びの姿勢を維持することは両立できるのではないだろうか。 学びに対する謙虚な姿勢は、学びに対するあくなき好奇心が先であり、謙虚でいようと自分を律することで担保されるものではないのではなかろうか。
こんなことを考えてみる。 もし、野上さんが過去に多く出会った芸術家や美術家の「教養人」の方々が、彼女に対して、物怖じすることを善とするかのような、態度を示していなかっただろうかと。 つまり、自分は「知っている人」で、あなたは「知らない人」といった、目に見えない境界線は引かれていなかっただろうかと。 つまり、その目安としては、安心して「バカ」な質問ができない状態がそれに相当するのではなかろうか。
こちらでは、謙遜をこめて、教授に対して「バカな質問に聞こえるかもしれませんが」などと、枕詞を使うと、逆に「この世の中にバカな質問など存在せん。」と一喝される。 そして、皆一様に、こちらが理解できるまで、何度も言葉を変えながら、辛抱強く時間をかけて説明しようとしてくれる。
なぜアメリカのものがこうも多く、グローバルに市民権を勝ち得ているのだろうか。 世界の公用語としての英語のパワーは、決して否定のできない大きな存在であろう。 がしかし、このような「分からない人たち」の目線に立って、物事を組み直そうという努力なり姿勢、つまり、アメリカの文化的特徴がこれらを可能にしているのでないかとも考えてみるのである。
日本でも最近、若手アーティストたちが、美術や芸術を分かりづらいもの、高尚なものから、もっと生活に身近なもの、一般の市民にもっと理解しやすいものに創り変えようとする動きが見られる。 もちろん、すべての芸術が大衆に迎合する必要はないと思うが、このような流れが適度にあった方が、経済的側面からだけでなく、いろいろと望ましいのではなかろうか。 なぜなら、大衆との接点・接触を通して、新しいものがクリエートされる可能性も否定できないのであるから。
最後に、これまで、こちらで多くのクラスを体験してきたが、学びの多かった最も印象に残る授業は? またその要因は何かと尋ねられたら、私はこう答えるだろう。
クラスのメンバー全員がそれぞれの個性を物怖じせずにさらけ出し、他はそれを認め、それを触媒としてさらに議論を発展させていく。 つまり、授業は、その場に居合わせた皆の協力で創り上げているといった感覚。 教授はそれをコントロールをしようとするのではなくて、知識と経験に基づいて、生徒たちがさらに深い議論ができるよう、その枠組み、およびいろいろな仕掛け作りを通して、ファシリテーター役を演じる。
そこには「知っている人」と「知らない人」といった目に見えない境界線は殆ど存在しないのである。
私は野上さんの言う「教養」が何を指しているのかまだ定かではない。 つまり、学びは学びであっても野上さんの「教養」と、私が今学んでいるものの次元が異なる可能性も否定できないと考える。
少し逃げ腰の結論に聞こえるかもしれないが、あえてここでcontingency theoryを持ち出したい。^^
つまり、野上さんの言う「教養」を身に付ける場合には、「物怖じ」が欠かせないファクターなのかもしれないが、私がこちらで体験している「学び」の場合には、「物怖じしない」ことで、よりプラスの収穫があるように感じられるという結論に。
今ふと思ったのだが、今年、日本全国で、海パン姿のお笑い芸人による、何でもかんでも「そんなの関係ねえ!」が、一大旋風を巻き起こしたと聞いた。 ある意味、この超利己的コミュニケーションの風潮を戒めるため、Worksさんによる、「物怖じ」と「教養」を組み合わせた一種のアンチテーゼ編集だった可能性も否定できないと。 つまり、ここでの結論も、知ってか知らずか、主張と時事、社会状況とが相互作用し合うといった意味においてcontingencyなのである。
2007年12月26日水曜日
紛争解決の教訓と人事の肝
企業の人事という観点から考えると、まずは、直接の摩擦・紛争解決者であるラインマネージャーのスキルトレーニングの企画および実施、これが第一に重要になってくるであろう。 一般的に、ここアメリカでは、部下を持つ上司に対して行う、Supervisory Trainingというカテゴリーが存在する。 これは主に、上司・従業員(部下)間、あるいは、監督する従業員間の相互関係(interactions)の改善をメイントピックにしているもので、なかでも、conflict management skillが最も重要度の高いスキルトレーニングとして挙げられているようだ。
人事が組織内で発生する、従業員間の「負の摩擦」に介入する方法としては、1)ラインマネジャーの摩擦・紛争解決能力を高めることを第一義としつつも、2)摩擦・紛争解決のためのシステム整備といった二刀流で固めておく必要があると考える。 なぜなら、ラインマネージャーは、人に評価を下し、処遇を決めるといった仕事に関わる以上、紛争・摩擦の当事者になる可能性は高くとも、決してその可能性を排除することはできないと考えるためである。
また、ダイバーシティ時代には、従業員レベルでの摩擦解消・解決能力、それに伴う意識レベルの向上が大変重要になってくると思われるが、この部分に関しては別の機会に重点的にお話したいと考える。
前置きが長くなりましたが、今日お話したかったのはもっとファンダメンタルなこと。
「紛争を解決に導くために最も重要なことは?」
この問いについて、少しお話をしたいと思う。 HRIR5021のクラスのアサインメントの中で、現地で紛争解決を生業としている人を訪ね、インタビューをするといった課題があった。 私はここミネソタ州の州都、セント・ポールで地方裁判官 (district judge) として働く、Judge Steven Wheelerさんを人伝に訪ねることにした。
彼にはいろいろと質問をしたが、一貫して強調していたのが、紛争解決のプロセスにおいて、「人々がフェアに扱われること」、「人々がフェアに扱われていると感じること」の重要性であった。
彼は、「最も重要なことは、彼らが話を聞いてもらっていると感じること。 もっと言うと、彼らの言わんとしていることがちゃんと聞いてもらえていると、彼らが感じること。」が、紛争当事者にとってのフェア感のバロメーターになっているのだと語る。
ここで少し補足をすると、アメリカで言うjudgeのお仕事は、日本の「裁判官」とは必ずしも一致しないということ。 アメリカのcourt systemを簡単にお話しますと、民事訴訟の場合、mandatory ADR (Alternative Dispute Resolution): 仲裁、調停など、といったプロセスを裁判に行く前に必ず経なければならないのだそうだ。
日本でも今年2007年4月からADR促進法、裁判外紛争解決法が施行されたようだが、この裁判外紛争解決手段がアメリカの民事訴訟の場合、義務的にcourt systemの中に組み込まれている。 お会いしたJudge Wheelerさんは、pre-trial /settlement conferenceという裁判の一歩手前のプロセスを主に担当していて、彼の役割の大半は、紛争当事者(主に弁護士)との面談を重ねて、裁判に行く前に何とか和解するように仕向けることだと言う。 彼の経験値によると、このシステムを用いてからは、民事訴訟の大体98%は、裁判に行く前に和解、解決しているそうだ。 つまり、残り2%のみが和解の糸口を見つけられずに、お金も時間も莫大に費やして、裁判で白黒をつけるといった最終的な手段に頼ることになるのだと言う。
彼は「このシステム自体は悪くないシステム。」だと言う。 しかし、「システムが重要なのではない。 人々がフェアに扱われていると感じるかが(紛争解決には)重要なのだ。」と言い切る。 そして、Judgeとしての自分の仕事はそれを確かめ、確実にすることだと語る。
どんなに効果的なシステムを創り上げたとしても、そのシステム自体は、必ずしも人々に対して、フェアに扱われているといった感覚を約束するものではない。 人々がフェアに扱われていると感じるためには、Judge Wheelerさんのような、「人々」の助けなくして実現しえないものだと、今回のインタビューを通して切に感じた。
これから人事のプロを目指す私にとって、常に頭の片隅に置いておきたい、大切な言葉、教訓である。
ダイバーシティ、無名性、成果主義
茂木健一郎の「超一流の仕事脳」
達人は「習熟」を自ら否定する
~文化財修理技術者 鈴木裕~
茂木さん曰く、
「どんなに目立つスタンドプレーの仕事の背後にも、必ずそれを支える無名の仕事があるはずだ。特に生命や組織などの有機体を維持するにはいろんなルーチンワークがある。
我々の体にしても、ほとんどのところは無名というか、脳みたいにオレが意識を作っているなんて言わないで、無名に我々の体の働きを支えてくれている働きがいっぱいある。無名性というのは、組織が有機体として維持されていくために絶対に必要なことだと思う。
無名のものに報いるというか、少なくとも感謝の気持ちを持つことが、組織を続けていくためには大事なことだと思う。愛と感謝じゃないけれど、僕は無名性こそが継続、持続の礎なんだと改めて思った。
そういう意味でいうと、スタンドプレーや目立つことばかり評価される成果主義というのは有機体としての組織にはなじまない面があるのではないか。特に、継続性とか持続性を考えたときに、無名性をちゃんと評価しないと絶対にもたない。それは分かっている人は分かっている。」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20071129/141850/?P=1
感想
成果主義も企業によってまちまちだが、導入した企業の多くは個人の業績と報酬をリンクさせるやりかたをとっている。 報酬(主に成果給やインセンティブ)とは結局、その年の利益を原資として、各人の業績に応じて、相対的に配分される仕組みになっているので、組織内のsocial interdependence(社会的相互依存性:注1)は当然のごとく、competition(競争)またはnegative interdependence (ネガティブな社会的相互依存性)にならざるを得ない。 competitive social interdependence(競争的社会相互依存性)とは、自分が多く報酬を獲得するためには、他者が少なくもらう、つまり犠牲になる必要があることを意味する。 このような状況におかれると誰しも相手が組織の中で目立たない、つまり、「無名」でいることを望むようになるのである。 このような報酬体系・システムの中では、自分が目立つこと、そして相手が無名化していくことの両方を追求するようになる。 ここには基本思想として、お互いの違いを認め、協力しながらシナジーを引き出していくといったような考え方は存在しにくい。 成果主義(Pay for Performance)には、こんな文化的特性があるのだということを人事をやる人間は肝に銘じておく必要があるのではなかろうか。
注1: social interdependence(社会的相互依存性)とは各個人の成果(outcome)が、他者の行動によって影響を受けるとき、存在する(Deutsch, 1949; Johnson & Johnson, 1989)。 社会的相互依存性はポジティブ、ネガティブの何れにもなり得る。 positive interdependence (cooperation) (ポジティブな相互依存性(協力、協働))は、各個人が共通のゴール・目標を目指して、協働する場合に存在する。逆に、negative interdependence (competition) (ネガティブな相互依存性(競争))は、各個人が、一人もしくは僅かな人しか達成できないゴールを目指して、お互いに足の引っ張り合いをする(work against each other)ときに存在する。(Johnson & Johnson, 2002)
ダイバーシティ時代の人材モデル
例えば、「水」という大きなテーマについて、さまざまな専攻の学生が議論する。 そのことで化学から見た「水」、物理から見た「水」といった多面的な捉え方ができるという。 それは同時に、自分の専攻である「化学」や「物理」を、他の学問や社会問題の中に位置づけるとうことでもあるわけです、と氏は語る。
これは最近、企業サイドでよく聞かれるT型人材の考え方とよく似ている。 つまり、一つの深い専門と、できる限り広く浅い知識をもつ人材のことである。 企業を従業員にとっての「教育の場」と見なせば、P&Gのような会社は、T型人材を多く育てようとしていることがはっきりと見受けられる。 つまり、採用は基本的に職種別で行い、ローテーションは頻繁に行われるものの、職種間をまたいだ異動は基本的に存在せず。 しかし、クロスファンクショナルなタスクフォースでの活動機会も与えられることから、ICUでいうところの共同セミナー的役割もカバーしている。
ICUは近年「卒業生の生涯給料獲得ランキング」でトップクラスに入っているそうだ。 これはICUが実践してきた「専門教養」教育の中で育った人材が、企業社会の中で高い市場価値を示していることを意味するものである。 この指標だけをもって、早計に結論付けるわけにはいかないが、この事実は一定の仮説設定を可能にする。
もし、T型人材が現在の日本の企業社会の中で、すでに高い価値を示しているのあれば、これからのダイバーシティ時代には、ますますこのT型に対するニーズが高まっていくだろう。 なぜなら、これまで違いを同化させてきた日本企業は、これからますます違いを認め、またこれを統合し、生かすといったパラダイムにシフトしていくためである。 つまり、深い専門を持つことが各人の違いとなって組織に価値をもたらすとともに、かつこの違いを組織のさらなる競争優位を実現するために結びつける作業が必要になるからである。
T型人材がダイバーシティ時代の最も好ましいモデルとは言わないまでも、Multicultural Organizationを目指す多くの企業から多くのニーズを集めると、予想してもよさそうだ。
参考資料: Works 85号. Dec 2007 - Jan 2008 「教養とは何か - 教育の現場から」
真のダイバーシティ人材とは その①
「大丈夫。おまえを必要としてくれる会社は、いくらでもある」
「中部大学キャリアセンター・市原幸造」の巻http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20071120/141162/?P=1
このコラムを書いた双里さんの言葉を借りれば、「なぜ彼らはそこまで熱意を注ぐのか。 計算や効率からは到底理解できない「働き者」たち。 お金、名声、自己満足以外にも、働く理由があることが、彼らの言葉から見えてくる。」のである。
私はこのような人たちに直接・間接的に出会いながら、いつも共通して感じることがある。 それは、彼らはいつも「内向き」ではなく、外を向いて生きていたり、仕事をしているということだ。 主人公の市原さんが現在置かれている環境のように、組織の経済論理と自分の信念が必ずしも一致しない時がある。 しかし、彼は学生の立場に立って、論理構成をすることを少しもあきらめないし、それを自分のミッションだと言い切る。 それに反すると考えれば彼は周囲や組織に対して、「ノー」をつき付けることも厭わない覚悟でいる。
(ここからは私の想像の域だか、) 彼は自分の考え、主張を通すために、質・量ともに自分の仕事について、また自分の真のミッション(上から押し付けられたミッションではなく、現場で自分の五感を通して掴み取った生きたミッションの意味)について、とことん考え抜いていることがうかがえる。 それは彼の発する言葉から、また彼の仕事への取り組み姿勢からもうかがい知ることができる。 彼は、ほとんどの学生たちは自分のことを必要になる3年生の時に初めて知るようになるけれども、自分は入学した1年生の時から彼らを見続けているのだと話す。 彼は学生の心の中にあるものを見ようと努力をし続けているのである。
彼は職場(大学)の中で決して浮いた存在というわけではなく、逆に経験に裏打ちされた己の哲学を持つ、貴重な「ダイバーシティ人材」として、余人を持って変えがたい存在になっているのではないだろうか。
また、組織の観点から見ても、この市原さんがもたらす一種の「ゆらぎ」を大学サイドがある程度認め、許容しているからこそ可能であるという点も見逃してはならないと考える。
(本文)
多くの学生が限られた数の椅子に向かって殺到する。それを煽るように就職ビジネスが学生の背中を無理矢理に押す。履歴書対策、面接で好印象を与える方法、エントリシートの書き方、筆記試験の攻略法、自己分析、グループディスカッション、立ち振る舞い、スーツの着こなし……洪水のように流れてくる情報の中を、遅れを取らないよう必死になって前へと進む学生たち。理解するのではなく、まずは情報を頭に叩き込む。受験勉強の時と同じ光景。そこに生まれるのは、同じ顔、同じ考え方、同じ言葉を話す学生たちの姿だ。
(中略)
採用側である企業もまた「同じ顔」「同じ言葉」で学生たちにこう問いかける。「あなたは社会に出て何がしたいのか」「10年後、20年後にどうなっていたいか」「自分に何ができると思うか」……。すべての学生に会うことは不可能だし効率が悪い。まずは、採用の窓口をパソコンの中で行い、そこで人数をふるいに掛ける。“上手に質問に答えられたもの”だけが椅子取りゲームの先へと進むことができる。
(中略)
「10年後のことは、今はよくわかりません」と正直に答えてしまったら、間違いなくエントリー段階で落とされるだろう。その学生の人柄や能力に関係なく。就職ビジネスに背中を押され、企業からの問いかけに必死に答えようとする学生たち。器用に対応できる者だけが採用されていく。これが今の就職活動の現実なのかもしれない。大切な「何か」が片隅に追いやられている。
(中略)
大学もまたビジネスとは切っても切り離せない立場にいる。少子化が進む中、生き残りをかけて生徒を集めなければならない。生徒募集の切り札が「就職実績」だ。あの大学に行けば大手企業に就職できる。就職に困ることはない。これが最大の売りとなる。市原にも各学部から依頼が届く。「学生を何とか大手企業に就職させてほしい」。その思いは痛いほどわかる。自分自身も葛藤している。でも、市原はこう答えることにしている。
「そんなことはしません」。
少なくとも、自分は学生の本心や本音を受け止めてあげることができる「1人の大人」でいたい。
(中略)
社会人生活の第一歩なのに、記念すべきスタートなのに、学生たちが自分の思いを、偽り、曲げ、時には殺してしまう就職活動とは何なのだろう。
自分のミッションは大手企業に就職させることではない。「全員を社会のスタート地点に立たせること」だと、市原は考えている。その学生が望む企業に就職できなくても、たかが就職くらいで人生をあきらめることなく、自分らしく人生を歩むことのほうが大切だ。
(中略)
もっと自分に正直に仕事さがしをすればいい。正直な自分を採用してくれない会社なんて、入社したところでどうせ苦労するだけだ。「入社させてください」なんて頭を下げるな。企業規模なんて関係ない。「キミがほしい」と求めてくれる会社に行くほうが、きっと何倍も幸せに働ける。
市原が今、大切にしている言葉。それは「大丈夫」のひとことだ。「ぼくの“大丈夫”には根拠はないんですけどね」と笑う市原だが、それは学生たちが一番求めている言葉なのかもしれない。
(中略)
「就職活動があるから、部活を途中で辞めようと思うんです」。市原は言った。「辞めるな。野球がしたいのなら、思い切りすればいい。大丈夫!就職は何とかしてやる。」
(中略)
何回か転職して、ようやくやりがいのある仕事を見つけたと報告する学生がいる。ほら、大丈夫だ。就職活動はたったひとつの通過点にしか過ぎない。かつての自分がそうだったように、彼らは自分自身でしっかりと人生に折り合いをつけて生きている。人生を歩いている。その姿こそがもっとも尊い。何よりも嬉しい。
感想
ちょうど10年前、私も大学の就職課を訪ねて、就職活動に伴う不安を打ち明けたことを思い出す。 大学にはサッカーをやるために入ったので、勉強で誇れるものは特になく。 また、日本国籍をもたない私にとっては、当時まだ多く存在した国籍差別の状況はダブルパンチであった。 そんな中、大学の就職課の人を訪ねてみた。 “ナカさん”といっただろうか。 学生の間ではそう呼ばれて親しまれていたような気がする。 彼は自分の話を聞いて、「心配するな、俺に任せろ! 会社はいくらでもあるから。 お前だったら大丈夫!」と言ってくれた。 多分、会う学生みんなにこう言っていたのかもしれない。^^ でもこの言葉がどんなに心強く、当時の私を支えてくれたか分からない。
10年経っても相手の心に生き続ける言葉をかけられること。 これが「人」に携わる仕事に就く者たちが目指すべき最大にして最高の能力なのかもしれない。 これは決してテクニックなどでは補い切れない代物。 その境遇に自分の身を置いて初めて知ることのできる不安の重さ、歯がゆさ、どうしようもなさ、こういったものがどうしても必要になってくると感じるのである。
「エリート人事」は、ダイバーシティ時代の人事には向いていない。 これは私の個人的仮説である。 なぜなら彼らは、就職で自分の能力以外のことで苦労した経験も、額に汗して営業した経験も、お客様には高い評価をもらいながら、「内向き」上司の気まぐれで失業した経験も、派遣社員として働いた経験もおそらくないであろうからだ。 つまり、彼らはこうした人たちを表層的な属性で捉え、上っ面の「ダイバーシティ・マネジメント」で、要領良く処理することはできても、彼らの心の奥底にある気持ちを理解しようとする力や動機は相対的に弱いと言えるかもしれない。 つまり、彼らをモチベートする言葉を持ち合わせていない可能性が高いのである。
今度、ダイバーシティ・マネジャーの仕事や、求められる能力について書いてみたいと思う。
2007年12月25日火曜日
ダイバーシティと自己組織化
自己組織化(Self-Organizing System)とはシステム(組織)全体の変化の要因を、そのシステム内のエージェント(メンバー)の個々の振る舞いに着目するものである。 今田教授は組織が変わるのは、全体が先か、個人が先かとの問いに、「個人が先」と言い切る。
さらに今田教授は、組織が外圧によって変わるのは第二級の適応に過ぎない、組織の内なる力で変わるのが第一級の適応だ、と言う。 つまり、前者は受動的な環境適応であるのに対して、後者は自らの意思で能動的に変化する自己適応であるとのこと。
人間の場合は変化する方向も自ら決めなければならないとし、自己決定に基づく自己適応能力が、本当の意味での変化だと、氏は言う。
組織は環境に適応して変化もするが、変化する力の源泉が内部に存在することをより自覚すべきで、そのような意味から自己組織化という言葉を使っているのだそうだ。
「このようなメカニズムが働かない企業では自己組織化ができない。 外圧ではなく、自己変革できる企業のみが生き残れる。 真の自己組織化とは、自分のなかに変化の兆しを読み取り、これを契機に新しい構造や秩序を立ち上げること。」だと、氏は語る。
続けて、今田教授は、自己組織化の基本的性質として、自己言及性とゆらぎを挙げる。
自己言及性とは、発言について言及する、考えたことについて考えるといった、人間固有のコミュニケーション能力を指しているのだと言う。 つまり、言及性とは他者とのコミュニケーションの繰り返し。 自分の行為が自分に跳ね返ってくることの連続だということ。 氏は社会的な自己言及的メカニズムのもたらす効果として、「意図せざる結果」を挙げ、人間の文化も結局、この「意図せざる結果」によって、発達してきた部分が大きいと語る。
今田教授は、自己言及性のメカニズムを理解していない人がことのほか多いと言う。 つまり、氏は、「自社の業績が悪くなると、経営者が悪い、管理者が悪いとすぐ他人のせいにする人、組織の一員にも関わらず、傍観者のごとくシステムの外の人間を装おうとする人が少なくない。」と語る。 さらに、氏は、「その人たちは組織の一員としての自分の行動が組織全体に影響を及ぼしていることを理解していない。 その人たちの組織への働きかけが跳ね返ってきたことでもあるという見方ができていない。」とも言う。
このように、組織内の自己言及性を機能させていない原因は一体どこにあるのだろうか。 個人的には、このような自己言及性のメカニズムの存在にはうすうす気付きつつも、それを基に、振舞おうとしない人がことのほか多い、また増えているように感じるのである。 つまり、私は、昨今、企業が新しく組み直した、組織構造やマネジメントの仕組みが、今田教授の言う、いわゆる「理解していない人」を、結果的に、多く生み出しうる土壌を築くのに資していないだろうかとも、考えてみるのである。 この問題については別の機会にあらためて考えてみたいと思う。
もう一つの基本的性質として、「ゆらぎ」がある。
氏は、ゆらぎを、システムそれ自体の構造に起因して起こるものだと言う。 自然科学の世界では、ゆらぎとは、マクロ的に見たシステムにおいて、その平均的な振る舞いからの乖離として説明されるのだそうだ。 これを社会現象に応用すると、既存の枠組みや制度には収まり切らない、あるいは既存の発想では処理できない現象として考えることができると言う。
ゆらぎとは、一つの微粒子を元にして新しい秩序の可能性を探る、一種の情報だと氏は語る。
自己組織化を促す四つの条件
- 創造的な「個」の営みを優先する。
- ゆらぎを秩序の源泉と見なす。
- 不均衡ないし混沌を排除しない。
- コントロールセンターを認めない。
「創造的な「個」の営みを優先する。」とは、役割をあいまいにすることではないと言う。 役割はきちんと与え、その解釈を柔軟に問い直させるのだそうだ。 つまり、与えられた役割から組織に働きかけ、そこから組織が自己言及的にその人の役割にフィードバック作用を及ぼす。 この繰り返しから自分の役割を問い直すのだと言う。
つまり、ここでのリーダーの仕事は、メンバーが所与の役割を遂行することを監視するのではなく、それぞれの役割からの新たな意味の問い直しを支援することになるのだと言う。
これは「ダイバーシティ人材とは その①」で紹介している、中部大学キャリアセンターの市原さんのお話がそのまま当てはまってくる。 彼は自分のミッションや仕事の意味を学生の立場に立って、しきりに問い直す。 学生にとって就職とはどうあるべきかを。 その方向が親や大学サイドが求めるものと乖離する事態に陥ろうとも、彼は学生にだけ目を向け、答えを探ろうとする。
大事なことは、ここで中部大学は、彼を役割から外れたと、ストップをかけなかったということ(実際のところはわからないが)。 良い解釈をすると、このような大学サイド(もしくは、市原さんの上司に当たる方)の対応は、市原さんのある意味、「ゆらぎ」にあたる行為が組織全体にどのような創発をもたらすのか、じっくり観察しているようにも見て取れる。 つまり、この方向性が、少子化時代の新しい生き残りの道、また差別化要素になるという結論に至れば、積極的に支援をしていく可能性もあるということを意味しているのである。
「ゆらぎを秩序の源泉と見なす。」では、ゆらぎが系統的なゆらぎなのか、単なるランダムのものなのかの見極めが重要になってくる。 つまり、そのゆらぎの意味を自己言及的に考え、逸脱行動の中にも、社会の多様性の源泉としての創造的逸脱を見極めることが、組織のリーダーには求められる。
「不均衡ないし混沌を排除しない。」では、カオス(混沌)の重要性の認識が挙げられている。 カオスの重要性とは、わずかな誤差を無視すると、大きなしっぺ返しを被るということ。 以前は組織や社会というマクロな視点から俯瞰する際、小さな不均衡は無視しても大勢に影響はないと考えられてきたが、ほんの僅かな初期値の違いが、大規模な変化を招くことが理解されるようになってきた。 リーダーとして、あらゆる些細なことに留意するわけにはいかないが、このカオス理論の意味するところを理解する必要はあるだろう。
「コントロールセンターを認めない。」 つまり、自己組織化にとって最も重要なこと、それは管理をしないことだそうだ。 リーダーの役目は、一人ひとりの活動から全体にシナジーをもたらす風土を醸成することだと言う。
おわりに
私がこれから、Democratic Learning Organization を具体的に考えていく上で、この今田教授の自己組織化(Self-Organizing System)理論は多くの示唆を与えてくれている。 この理論は、私のもう一つのコンセプト組織、Individual-centered Cooperative Organizationの、特にIndividual-centeredの部分にも関わってくるものなので、いずれここでもう一度取り上げたいと考えている。
いずれにせよ、この「自己組織化」という問題は、ダイバーシティ時代、ダイバーシティな組織(私は通常、multicultural organizationと呼ぶ)にとって、欠かすことのできない理論および方向性であることは確認できた。
ダイバーシティに対する企業行動を診断するためのフレームワーク
もっと、それぞれの要素の関係性から詳しく見ていきたい場合には、以下のフレームワークを参考にするとよいだろう。 これは、Parshotam Dass and Barbara Parker氏が考案したもの。 彼らは、組織のなかの多様な人材を管理する上で、唯一ベストな方法はない、とする立場を取る。 つまり、ダイバーシティに対する組織のアプローチや取り組みは、以下フレームワークにある各要素の組み合わせで決まるのだと語る。 詳しくは、次回あらためて説明をしたいと考える。

A diversity approach will be most effective when the strategic responses and implementation style fit with management's intent and internal and external pressures.
SOURCE: Thomas G. Cummings & Christopher G. Worley, "Organization Development and Change 8th Edition"
2007年12月23日日曜日
私が考えるダイバーシティ その① “大きな絵” コンセプト図

Justice-Sensitive Organizationを下に置いたのは、組織としてjusticeに対して敏感であり、それを守ることが他の二つを下支えすると考えるためである。 逆に、injusticeが蔓延している組織では多種多様な人材の才能が組織の中心になることも、「泳ぐも沈むも一緒」といったような協力関係が生まれることも、また、民主主義が洗練され組織の意思決定能力が高まることもないと考えている。
多くの日本企業が現在取り組んでいる“女性活用”の問題(少し脱線するが、この「活用」という言葉を使っているうちは、女性をコントロールしようとする主体や意思がまだ組織の中に意識的・無意識的に多く存在している訳で、既存のpower differenceの枠組みの中で、物の見方や進むべき方向性が決められていることを反映している。 早い話が「男性活用」と聞いて違和感を感じるのに、「女性活用」と聞いて違和感を感じない人が男女問わず、まだ多く存在することが一つの証明になるだろう)。 現在多くの企業がこの問題に取り組んでいるが、その主な中身を見ると、女性管理職の数を増やす、出産・育児休暇後の職場復帰支援など、organizational injusticeが生み出す症状(symptons)をいかに是正するかに注力している。 内容の面からして、これはこれで正しい流れである。
ただ、私の唱えるJustice-Sensitive Organizationとは、それをさらに一歩進めたものであることをここで主張したい。 このコンセプト組織では、the symptons of injusticeというよりも、the source of injusticeをいかに敏感かつ正しくキャッチし、それに対処していくかに主眼を置いている(なぜ the source of injusticeに目を向ける必要があるのかについては、前回のブログに掲載した私の英文paper、"Justice-Senstive Organization"の部分に少し記載をしてありますので、ご参照ください)。
私が考えるダイバーシティ その① “大きな絵”
ある日系大手メーカーの採用担当者は、「“ダイバーシティ”が進んだ究極的な状態というのは世界各地にいる全ての従業員がサラリーギャップや各種法規制のしばりを超えて、自分が望む国や地域で働くことが可能になることではないだろうか。」とおっしゃっていた。また、外資系日本法人のリクルーターの方は、「日本にある会社ではダイバーシティというのはまだまだ女性活用の問題であり、アメリカとは環境が大分異なるので人種・民族などといった範囲までには拡大されにくい側面がある。」と話してくれた。
両者とも正しい。しかし共通して何か大事なものが抜け落ちているような気がした。 それは戦略的な視点。なぜ日本の会社がこれからダイバーシティを本格的に推進していく必要があるのか(ないのか)といったこと。 世界レベルで見た日本の強みは何で、それをこれからさらに磨き上げ、十二分に発揮していくためにはどんな組織に変わっていく必要があるのかといった視点であった。
例えば流行りのワークライフバランスプログラムや女性管理職の数値目標。 これらはなぜ必要で、どんな組織カルチャーを新たに取り込もうとしているが故の施策なのかといったより戦略的な視点。 また、そのカルチャーが顧客の立場からどんな新しい組織価値を生み出しうるのかといった視点である。
以下(英文)は、今学期、Human Relations Workshop (Educational Psychology)の授業の中で書き上げたものの一部です。 "Cooperative Learning"の創始者の一人であるDavid Johnson教授の授業で、広くダイバーシティを専門にしたいと考える人にとって、しっかりとした“知の土台作り”ができるということでぜひおすすめしたいクラスになります。
参考までに、
Course addressing issues of prejudice and discrmination in terms of history, power, and social perception. Includes knowledge and skills acquisition in cooperative learning, multicultural education, group dynamics, social influence, effective leadership, judgement and decision-making, prejudice reduction, conflict resolution. Meets State of Minnesota's Human Relation teacher licensure requirement.
このpaperの中で私は、21世紀の日本企業がMulticultural Organizationへとトランスフォームするためにどんな方向を目指すべきなのかを、3つのコンセプト組織を使って説明しています(Individual-centered Cooperative Organization, Democratic Learning Organization, Justice-Sensitive Organization)。 私はこの3つのコンセプト組織を同時に目指すことこそが真のMuliticultural Organizationへと近づく道ではないかと考えています。 つまり、各種人事施策はこのコンセプト組織を具現化するための施策として捉え直されるべきだということです。
“Philosophical Statement on Multicultural Education”
• What does multicultural education in professional practice mean to you?
• Prepare a philosophical statement that expresses your stance on multicultural education in professional practice.
Considering the Ideal Transformation for Japanese Companies
in the 21st Century
Individual-centered Cooperative Organization
Nonetheless, whether organizational diversity results in positive or negative outcomes largely depends on how to create social interdependence within organization. Johnson and Johnson (2002) noted that competition does not teach the value of excellence (p.272). When a situation is structured individualistically, individuals seek an outcome that is personally beneficial without concern for the outcomes of others (p.273). However, cooperation places value on a wide range of diverse qualities that facilitate joint success. Thus, everyone has value (p.275). Like a living organism which is supported by tons of nameless small functions, a business organization is also composed of many invisible small efforts and challenges of diverse people. I think pursuing individual-centered cooperative organization means trying to recognize and appreciate those “nameless” diverse performances. I thus believe that if a company tries hard to treat employees with individual-centered cooperative value, employees are also more likely to try hard to find and meet unmet needs of excluded potential customers. HR practices should help employees to rethink of applications of Japanese advanced technologies in more multicultural ways for a better global well-being.
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All rights reserved by Yongmin Choi (ymchoi512@gmail.com)
David W. Johnson & Roger T. Johnson (2002). Multicultural Education and Human Relations: Valuing Diversity. Boston: Allyn and Bacon.
John W. Budd (2007). Labor Relations: Striking a Balance 2nd Edition. McGraw-Hill College
James Surowiecki (2005). The Wisdom of Crowds: Why the Many Are Smarter Than the Few and How Collective Wisdom Shapes Business, Economies, Societies and Nations. Knopf Publishing Group
Young, I. M. (2000). Five faces of oppression. In M. Adams, W. J. Blumenfeld, R. Castañeda, H. W. Hackman, M. L.
2007年12月22日土曜日
はじめまして
現在ミネソタ大学HRIR(Human Resources and Industrial Relations)のプログラムにて修士課程に在籍しているものです(2008年5月卒業見込み)。
このブログでは、人事関連のトピを主体(特に、ダイバーシティについて)に、自分のリソースをフルに使ってできるだけ幅広にかつ幅広な視点から綴っていこうと思います。
このブログを介して、この分野でご活躍されている方々との知的交流ができればと考えています。
それではよろしくお願いします。
ミネソタ大学カールソン校HRIRマスタープログラムについて
http://www.irc.csom.umn.edu/Page5884.aspx