2008年1月7日月曜日

「精神的自由」を個人、プロセス重視のマネジメントで読み解く、その心

「日本でも最近、若手アーティストたちが、美術や芸術を分かりづらいもの、高尚なものから、もっと生活に身近なもの、一般の市民にもっと理解しやすいものに創り変えようとする動きが見られる。(中略)なぜなら、大衆との接点・接触を通して、新しいものがクリエートされる可能性も否定できないのであるから。」

以前こんなことを、このブログで書いた覚えがある。 そこで、今日のお話しは、これに関連した情報で、ダンサー、アオキ裕キ氏の呼びかけにより始まった、ソケリッサという名の芸術作品(コンテンポラリーアート)から始めてみたいと思う。 これはホームレス境遇者による踊りを主体とした表現で、「路上生活者が舞台の上で表現した場合に何が見えるのか。」を意識した芸術だと、アオキ氏は語る。

http://sokerissa.com/

氏は、この企画は、単純に「ホームレスのおじさん達の踊りを見たい。」といったニーズからスタートしたと言う。 以前の私であれば、企画の思想をあれこれと批判することから始めていたであろう。 ただ最近では、このように単純で、ある意味、興味本位の「正直」な気持ちから、多くの物事は動き出すのではないかとも考えるようになった。 つまり、ここで大事なのは進化の「プロセス」であって、物事のスタート地点において、必ずしも高邁な精神や理想を築き上げている必要はないと思うようになりつつある。 
逆に、多くの人々から共感を得るためには、大上段に構えた高邁な企画より、等身大で、人間の本性を匂わせる「素」の要素、つまり、どちらにも転がり落ちることのできる不安定な状態を内包している方が、より「大衆受け」しやすく、結果として新たな社会的動きへと発展していくのではないだろうか、とも考えるのである。

こと日本における、観衆を意識した今後の芸術文化を考えた場合、とりわけこの「不安定な状態」は欠かすことのできない要素だと、人間・社会の発達過程の観点から考えてみるのである。 つまり、社会の成熟とともに、何者にも束縛・操作されたくないといった、個人の「自由」に対する欲求は次第に増していくことはあっても、衰える方向へは進みにくいと考えるためである。 補足すると、この「自由」とは、経済的自由というよりは、より高次の「精神的・思想的自由」を指すものである。 

昨今、社会問題化しているニート現象は、ある意味、日本社会の「器」を、成熟社会型へとシフトさせていく必要性を問うているように感じるのである。 つまり、「自由」をキーワードとして考えてみると、これまで社会全体として、主に追求してきた経済的自由から、精神的・思想的自由へのシフトが一つの大きな切り口になるのではなかろうか。 また、この二つをイメージ化してみると、似て非なるもので、経済的自由を求める社会では、集団として一方向・同一方向を向いて進むことが、あらゆる面で説得力を持ち、うまく機能してきたが、精神的・思想的自由を求める社会になると、今度は個人の多様な方向性をどれだけ多く受け留められるかといった、幅の問題が重要になってくる。 つまり、中身の異なる自由に対して、新たな社会的「器」創りを着々と進めていくべき時に差し掛かっているのだと思うのである。

もっと言うと、「社会が先か個人が先か」と問われれば、これからの日本はより、個人が先の社会へとシフトしていくのではないだろうか。 つまり、これからの日本社会の発展を測る尺度としては、個人の人間的発達に関する尺度が、ますます重要になってくるのだと考えてみるのである。 

また、上記の「経済」と「精神」を対峙させた議論の観点から、もう一つの重要な要素が浮かび上がってくるように感じるのである。 それは結果重視の思想とプロセス重視の思想。 つまり、経済的観念からのみで、ビジネスを捉えると、どうしても、インプットに対してどれだけアウトプット(結果)が出るか(出ないか)に、初めから固執した議論になりがちである。 つまり、これは結果重視の思想で、相対的に物事のプロセスにおける、進化の可能性を無視することにつながるのではと考えてみるのである。 したがって、上記でお話したような「精神的自由」を、ビジネスというツールを通して具現化しようとした場合、直感的に、この結果重視の思想は、いずれ何らかの「行き詰まり感」を見せる気がしてならないのである。 なぜなら、結果を重視したビジネスとは、つまるところ、誰かが予め決めた型や予測の範囲:「こうすればああなって、こうなる。」の中に、消費者は購買行動を通して、自分自身を押し込めることをも意味するからである。 

昨今、情報技術の発展を媒介に一気に噴出した感のある、プロシューマリズム(Prosumerism)の台頭、およびそれに付随して起こる、様々な新しいビジネスモデルの成果を見る限り、ますます、消費者によるビジネスプロセスへの介入現象は進んでいくと考えるのである。 そしてますます多様な消費者ニーズ、もっと正確に言うと、消費者の多様な「精神的・思想的ニーズ」を、彼らとの共同作業を通して具現化、カスタマイズ化していける能力が、企業の組織能力として、今まで以上に問われてくるように感じるのである。

顧客との関係性は、今後ますます「精神的・思想的自由」を具現化するための、プロセスを重視した長期的関係性へと回帰・発展していくと予想する。 ビジネスは、一回ごとの完結型取引というよりは、どちらかと言うと、長期的な観点から信頼醸成をしていくといった、東洋的なビジネス観が、再度フィーチャーされるようになると考える。 つまり、消費者は、財やサービスを通して物質的なお付き合いをするというよりは、企業ブランドや商品ブランドなどの、擬人化された精神主体と長期間に渡って、「精神的・思想的自由」をテーマに、発展的、建設的コミュニケーションをしていくことを、一層好み、望むようになると考えてみるのである。

このような未来予想を通して、昨今の日本企業の人材マネジメントを眺め直してみると、いわゆる典型的なアメリカ型「成果主義」を導入して、これまで蓄積してきた顧客提供価値(Customer Value Proposition)を一気に貶めた企業事例は多く耳にしても、成功事例を殆ど聞くことがないのは当然の結果だと見てもあながち間違いではないのではなかろうか。 なぜなら、顧客はプロセス主体の「精神的・思想的自由」をますます求めるようになっているにも関わらず、その具現者の一方である企業で働く従業員のマインドは、単発的で、経済的結果のみを重視するよう、矯正されてしまっているからである。 つまり、協働、それに伴う相互作用がますます重要になっているにも関わらず、お互いの関係性がうまくフィットしていないのである。 

これは何も自分(従業員としての供給者)と、他者(消費者)との間にだけ起こる葛藤ではなく、全ての働き手が消費者の顔を持ち、その役割をも担うという意味において、不健康な内面的葛藤をも生み出し得る問題として捉えるべきだと考える。 つまり、成熟社会の一消費者として、より高次の精神的ニーズを求めつつある自分と、そのような新たな社会ニーズに対して、働きを通して十分に貢献できていないと感じる、もう一人の自分との間に起こるジレンマ。 経済的結果重視の思想が強い企業文化の中では、成熟化しつつある社会との外部接点において、人々が持つ、消費者と供給者の顔が根本的矛盾を抱えるといった、いわゆる「二重人格」的態度を強いることに繋がりかねないのではなかろうか。 このような態度は多かれ少なかれ、「仕事観」に対するニヒリズム、つまり、「所詮、仕事なんてこんなものだから深く考え込まず、割り切って要領よくやった方が得。」といった一種のけん怠ムード、「燃えない」症候群を生み出す温床に繋がってくるのではと、考えてみるのである。

私が思うに、冒頭でお話したソケリッサも企業も、最初や最後が肝心なのではなく、その間の途切れの無いプロセス、つまり、プロセスを重視したマネジメントが今後の成否を握ると考える。 そのプロセスの中でどれだけ人間の精神の発達をテーマに進化していけるかが、今後ますます重要になってくると予想してみるのである。

アオキ氏は、ソケリッサの企画の目的を、「人間を観る。ただこの言葉に尽きる気がします。」とも語っている。 この企画がどんな進化を遂げ、どんな動きにつながっていくのかを海の向こうから密かに注目したいと思う。

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