Meyerson and Fletcher (1999) argued how invisible – even unintentional – gender discrimination thrives in today’s companies. Many tend to see this problem only from the gender perspectives, but I think this approach brings about a possibility that we misunderstand the essence of this problem. Despite what you may hear, I think this gender discrimination issue is essentially no different from the issue of “senseless increase” in the spread between executives’ compensation and the average salaries of the people they employ in corporate America. Thus, I’d like to define invisible gender inequality in the workplace as a matter of injustice. The reason I think this definition is so important is because organizations lacking in the sense of justice are more likely to find another scapegoat for oppression, even if one oppressed group is relieved.
That is, I think gender discrimination is a single manifestation of organizational injustice based on oppression and will be reproduced in the form of an injustice or combination of injustices, such as distributive injustice, procedural injustice, retributive injustice, moral exclusion (exclusion of a group or individuals from scope of justice) or cultural imperialism. Young (1990) explained that oppression is structural, rather than the result of a few people’s choices or policies. Deutsch (2006) also argued that we cannot eliminate this structural oppression by getting rid of the rulers or by making some new laws, because oppressions are systematically reproduced in the major economic, political, and cultural institutions. This means that we need to deal with the source of injustice, rather than the symptoms of injustice.
A couple of months ago, Business Week magazine said that customer service and employee morale at the Wal-Mart stores are at rock bottom and those situations lead to current slowing sales and a stagnant stock price. I hypothesize that such a situation was caused by an increase in perceived injustice by the oppressed. Probably many store staffs increasingly perceive that they are not treated as human beings by their employer because of lack of job autonomy and extreme distributive injustice. Why is GM's dominant position eroding rapidly against Toyota? I think this is the market-imposed decision based on the relativity of organizational injustice between the two companies. In other words, organizational injustice is revealed by day-to-day interactions with external stakeholders such as customers or the community. The more injustices in a company are, the less product or service quality will be, the more customers will be away from the company.
Therefore, I think that awakening the sense of injustice in an organization is increasingly important for future business continuity. Many businesses would have to go away from the market by leaving increased organizational injustices unsettled, not by succumbing in the external competition. Therefore, I conclude that for future HR professionals, sensitivity to injustice will be increasingly important and in the near future, I expect that the role of a “business partner” will be less important than the role of a “justice advocate” as HR function.
2008年1月14日月曜日
2008年1月7日月曜日
「精神的自由」を個人、プロセス重視のマネジメントで読み解く、その心
「日本でも最近、若手アーティストたちが、美術や芸術を分かりづらいもの、高尚なものから、もっと生活に身近なもの、一般の市民にもっと理解しやすいものに創り変えようとする動きが見られる。(中略)なぜなら、大衆との接点・接触を通して、新しいものがクリエートされる可能性も否定できないのであるから。」
以前こんなことを、このブログで書いた覚えがある。 そこで、今日のお話しは、これに関連した情報で、ダンサー、アオキ裕キ氏の呼びかけにより始まった、ソケリッサという名の芸術作品(コンテンポラリーアート)から始めてみたいと思う。 これはホームレス境遇者による踊りを主体とした表現で、「路上生活者が舞台の上で表現した場合に何が見えるのか。」を意識した芸術だと、アオキ氏は語る。
http://sokerissa.com/
氏は、この企画は、単純に「ホームレスのおじさん達の踊りを見たい。」といったニーズからスタートしたと言う。 以前の私であれば、企画の思想をあれこれと批判することから始めていたであろう。 ただ最近では、このように単純で、ある意味、興味本位の「正直」な気持ちから、多くの物事は動き出すのではないかとも考えるようになった。 つまり、ここで大事なのは進化の「プロセス」であって、物事のスタート地点において、必ずしも高邁な精神や理想を築き上げている必要はないと思うようになりつつある。
逆に、多くの人々から共感を得るためには、大上段に構えた高邁な企画より、等身大で、人間の本性を匂わせる「素」の要素、つまり、どちらにも転がり落ちることのできる不安定な状態を内包している方が、より「大衆受け」しやすく、結果として新たな社会的動きへと発展していくのではないだろうか、とも考えるのである。
こと日本における、観衆を意識した今後の芸術文化を考えた場合、とりわけこの「不安定な状態」は欠かすことのできない要素だと、人間・社会の発達過程の観点から考えてみるのである。 つまり、社会の成熟とともに、何者にも束縛・操作されたくないといった、個人の「自由」に対する欲求は次第に増していくことはあっても、衰える方向へは進みにくいと考えるためである。 補足すると、この「自由」とは、経済的自由というよりは、より高次の「精神的・思想的自由」を指すものである。
昨今、社会問題化しているニート現象は、ある意味、日本社会の「器」を、成熟社会型へとシフトさせていく必要性を問うているように感じるのである。 つまり、「自由」をキーワードとして考えてみると、これまで社会全体として、主に追求してきた経済的自由から、精神的・思想的自由へのシフトが一つの大きな切り口になるのではなかろうか。 また、この二つをイメージ化してみると、似て非なるもので、経済的自由を求める社会では、集団として一方向・同一方向を向いて進むことが、あらゆる面で説得力を持ち、うまく機能してきたが、精神的・思想的自由を求める社会になると、今度は個人の多様な方向性をどれだけ多く受け留められるかといった、幅の問題が重要になってくる。 つまり、中身の異なる自由に対して、新たな社会的「器」創りを着々と進めていくべき時に差し掛かっているのだと思うのである。
もっと言うと、「社会が先か個人が先か」と問われれば、これからの日本はより、個人が先の社会へとシフトしていくのではないだろうか。 つまり、これからの日本社会の発展を測る尺度としては、個人の人間的発達に関する尺度が、ますます重要になってくるのだと考えてみるのである。
また、上記の「経済」と「精神」を対峙させた議論の観点から、もう一つの重要な要素が浮かび上がってくるように感じるのである。 それは結果重視の思想とプロセス重視の思想。 つまり、経済的観念からのみで、ビジネスを捉えると、どうしても、インプットに対してどれだけアウトプット(結果)が出るか(出ないか)に、初めから固執した議論になりがちである。 つまり、これは結果重視の思想で、相対的に物事のプロセスにおける、進化の可能性を無視することにつながるのではと考えてみるのである。 したがって、上記でお話したような「精神的自由」を、ビジネスというツールを通して具現化しようとした場合、直感的に、この結果重視の思想は、いずれ何らかの「行き詰まり感」を見せる気がしてならないのである。 なぜなら、結果を重視したビジネスとは、つまるところ、誰かが予め決めた型や予測の範囲:「こうすればああなって、こうなる。」の中に、消費者は購買行動を通して、自分自身を押し込めることをも意味するからである。
昨今、情報技術の発展を媒介に一気に噴出した感のある、プロシューマリズム(Prosumerism)の台頭、およびそれに付随して起こる、様々な新しいビジネスモデルの成果を見る限り、ますます、消費者によるビジネスプロセスへの介入現象は進んでいくと考えるのである。 そしてますます多様な消費者ニーズ、もっと正確に言うと、消費者の多様な「精神的・思想的ニーズ」を、彼らとの共同作業を通して具現化、カスタマイズ化していける能力が、企業の組織能力として、今まで以上に問われてくるように感じるのである。
顧客との関係性は、今後ますます「精神的・思想的自由」を具現化するための、プロセスを重視した長期的関係性へと回帰・発展していくと予想する。 ビジネスは、一回ごとの完結型取引というよりは、どちらかと言うと、長期的な観点から信頼醸成をしていくといった、東洋的なビジネス観が、再度フィーチャーされるようになると考える。 つまり、消費者は、財やサービスを通して物質的なお付き合いをするというよりは、企業ブランドや商品ブランドなどの、擬人化された精神主体と長期間に渡って、「精神的・思想的自由」をテーマに、発展的、建設的コミュニケーションをしていくことを、一層好み、望むようになると考えてみるのである。
このような未来予想を通して、昨今の日本企業の人材マネジメントを眺め直してみると、いわゆる典型的なアメリカ型「成果主義」を導入して、これまで蓄積してきた顧客提供価値(Customer Value Proposition)を一気に貶めた企業事例は多く耳にしても、成功事例を殆ど聞くことがないのは当然の結果だと見てもあながち間違いではないのではなかろうか。 なぜなら、顧客はプロセス主体の「精神的・思想的自由」をますます求めるようになっているにも関わらず、その具現者の一方である企業で働く従業員のマインドは、単発的で、経済的結果のみを重視するよう、矯正されてしまっているからである。 つまり、協働、それに伴う相互作用がますます重要になっているにも関わらず、お互いの関係性がうまくフィットしていないのである。
これは何も自分(従業員としての供給者)と、他者(消費者)との間にだけ起こる葛藤ではなく、全ての働き手が消費者の顔を持ち、その役割をも担うという意味において、不健康な内面的葛藤をも生み出し得る問題として捉えるべきだと考える。 つまり、成熟社会の一消費者として、より高次の精神的ニーズを求めつつある自分と、そのような新たな社会ニーズに対して、働きを通して十分に貢献できていないと感じる、もう一人の自分との間に起こるジレンマ。 経済的結果重視の思想が強い企業文化の中では、成熟化しつつある社会との外部接点において、人々が持つ、消費者と供給者の顔が根本的矛盾を抱えるといった、いわゆる「二重人格」的態度を強いることに繋がりかねないのではなかろうか。 このような態度は多かれ少なかれ、「仕事観」に対するニヒリズム、つまり、「所詮、仕事なんてこんなものだから深く考え込まず、割り切って要領よくやった方が得。」といった一種のけん怠ムード、「燃えない」症候群を生み出す温床に繋がってくるのではと、考えてみるのである。
私が思うに、冒頭でお話したソケリッサも企業も、最初や最後が肝心なのではなく、その間の途切れの無いプロセス、つまり、プロセスを重視したマネジメントが今後の成否を握ると考える。 そのプロセスの中でどれだけ人間の精神の発達をテーマに進化していけるかが、今後ますます重要になってくると予想してみるのである。
アオキ氏は、ソケリッサの企画の目的を、「人間を観る。ただこの言葉に尽きる気がします。」とも語っている。 この企画がどんな進化を遂げ、どんな動きにつながっていくのかを海の向こうから密かに注目したいと思う。
以前こんなことを、このブログで書いた覚えがある。 そこで、今日のお話しは、これに関連した情報で、ダンサー、アオキ裕キ氏の呼びかけにより始まった、ソケリッサという名の芸術作品(コンテンポラリーアート)から始めてみたいと思う。 これはホームレス境遇者による踊りを主体とした表現で、「路上生活者が舞台の上で表現した場合に何が見えるのか。」を意識した芸術だと、アオキ氏は語る。
http://sokerissa.com/
氏は、この企画は、単純に「ホームレスのおじさん達の踊りを見たい。」といったニーズからスタートしたと言う。 以前の私であれば、企画の思想をあれこれと批判することから始めていたであろう。 ただ最近では、このように単純で、ある意味、興味本位の「正直」な気持ちから、多くの物事は動き出すのではないかとも考えるようになった。 つまり、ここで大事なのは進化の「プロセス」であって、物事のスタート地点において、必ずしも高邁な精神や理想を築き上げている必要はないと思うようになりつつある。
逆に、多くの人々から共感を得るためには、大上段に構えた高邁な企画より、等身大で、人間の本性を匂わせる「素」の要素、つまり、どちらにも転がり落ちることのできる不安定な状態を内包している方が、より「大衆受け」しやすく、結果として新たな社会的動きへと発展していくのではないだろうか、とも考えるのである。
こと日本における、観衆を意識した今後の芸術文化を考えた場合、とりわけこの「不安定な状態」は欠かすことのできない要素だと、人間・社会の発達過程の観点から考えてみるのである。 つまり、社会の成熟とともに、何者にも束縛・操作されたくないといった、個人の「自由」に対する欲求は次第に増していくことはあっても、衰える方向へは進みにくいと考えるためである。 補足すると、この「自由」とは、経済的自由というよりは、より高次の「精神的・思想的自由」を指すものである。
昨今、社会問題化しているニート現象は、ある意味、日本社会の「器」を、成熟社会型へとシフトさせていく必要性を問うているように感じるのである。 つまり、「自由」をキーワードとして考えてみると、これまで社会全体として、主に追求してきた経済的自由から、精神的・思想的自由へのシフトが一つの大きな切り口になるのではなかろうか。 また、この二つをイメージ化してみると、似て非なるもので、経済的自由を求める社会では、集団として一方向・同一方向を向いて進むことが、あらゆる面で説得力を持ち、うまく機能してきたが、精神的・思想的自由を求める社会になると、今度は個人の多様な方向性をどれだけ多く受け留められるかといった、幅の問題が重要になってくる。 つまり、中身の異なる自由に対して、新たな社会的「器」創りを着々と進めていくべき時に差し掛かっているのだと思うのである。
もっと言うと、「社会が先か個人が先か」と問われれば、これからの日本はより、個人が先の社会へとシフトしていくのではないだろうか。 つまり、これからの日本社会の発展を測る尺度としては、個人の人間的発達に関する尺度が、ますます重要になってくるのだと考えてみるのである。
また、上記の「経済」と「精神」を対峙させた議論の観点から、もう一つの重要な要素が浮かび上がってくるように感じるのである。 それは結果重視の思想とプロセス重視の思想。 つまり、経済的観念からのみで、ビジネスを捉えると、どうしても、インプットに対してどれだけアウトプット(結果)が出るか(出ないか)に、初めから固執した議論になりがちである。 つまり、これは結果重視の思想で、相対的に物事のプロセスにおける、進化の可能性を無視することにつながるのではと考えてみるのである。 したがって、上記でお話したような「精神的自由」を、ビジネスというツールを通して具現化しようとした場合、直感的に、この結果重視の思想は、いずれ何らかの「行き詰まり感」を見せる気がしてならないのである。 なぜなら、結果を重視したビジネスとは、つまるところ、誰かが予め決めた型や予測の範囲:「こうすればああなって、こうなる。」の中に、消費者は購買行動を通して、自分自身を押し込めることをも意味するからである。
昨今、情報技術の発展を媒介に一気に噴出した感のある、プロシューマリズム(Prosumerism)の台頭、およびそれに付随して起こる、様々な新しいビジネスモデルの成果を見る限り、ますます、消費者によるビジネスプロセスへの介入現象は進んでいくと考えるのである。 そしてますます多様な消費者ニーズ、もっと正確に言うと、消費者の多様な「精神的・思想的ニーズ」を、彼らとの共同作業を通して具現化、カスタマイズ化していける能力が、企業の組織能力として、今まで以上に問われてくるように感じるのである。
顧客との関係性は、今後ますます「精神的・思想的自由」を具現化するための、プロセスを重視した長期的関係性へと回帰・発展していくと予想する。 ビジネスは、一回ごとの完結型取引というよりは、どちらかと言うと、長期的な観点から信頼醸成をしていくといった、東洋的なビジネス観が、再度フィーチャーされるようになると考える。 つまり、消費者は、財やサービスを通して物質的なお付き合いをするというよりは、企業ブランドや商品ブランドなどの、擬人化された精神主体と長期間に渡って、「精神的・思想的自由」をテーマに、発展的、建設的コミュニケーションをしていくことを、一層好み、望むようになると考えてみるのである。
このような未来予想を通して、昨今の日本企業の人材マネジメントを眺め直してみると、いわゆる典型的なアメリカ型「成果主義」を導入して、これまで蓄積してきた顧客提供価値(Customer Value Proposition)を一気に貶めた企業事例は多く耳にしても、成功事例を殆ど聞くことがないのは当然の結果だと見てもあながち間違いではないのではなかろうか。 なぜなら、顧客はプロセス主体の「精神的・思想的自由」をますます求めるようになっているにも関わらず、その具現者の一方である企業で働く従業員のマインドは、単発的で、経済的結果のみを重視するよう、矯正されてしまっているからである。 つまり、協働、それに伴う相互作用がますます重要になっているにも関わらず、お互いの関係性がうまくフィットしていないのである。
これは何も自分(従業員としての供給者)と、他者(消費者)との間にだけ起こる葛藤ではなく、全ての働き手が消費者の顔を持ち、その役割をも担うという意味において、不健康な内面的葛藤をも生み出し得る問題として捉えるべきだと考える。 つまり、成熟社会の一消費者として、より高次の精神的ニーズを求めつつある自分と、そのような新たな社会ニーズに対して、働きを通して十分に貢献できていないと感じる、もう一人の自分との間に起こるジレンマ。 経済的結果重視の思想が強い企業文化の中では、成熟化しつつある社会との外部接点において、人々が持つ、消費者と供給者の顔が根本的矛盾を抱えるといった、いわゆる「二重人格」的態度を強いることに繋がりかねないのではなかろうか。 このような態度は多かれ少なかれ、「仕事観」に対するニヒリズム、つまり、「所詮、仕事なんてこんなものだから深く考え込まず、割り切って要領よくやった方が得。」といった一種のけん怠ムード、「燃えない」症候群を生み出す温床に繋がってくるのではと、考えてみるのである。
私が思うに、冒頭でお話したソケリッサも企業も、最初や最後が肝心なのではなく、その間の途切れの無いプロセス、つまり、プロセスを重視したマネジメントが今後の成否を握ると考える。 そのプロセスの中でどれだけ人間の精神の発達をテーマに進化していけるかが、今後ますます重要になってくると予想してみるのである。
アオキ氏は、ソケリッサの企画の目的を、「人間を観る。ただこの言葉に尽きる気がします。」とも語っている。 この企画がどんな進化を遂げ、どんな動きにつながっていくのかを海の向こうから密かに注目したいと思う。
2008年1月1日火曜日
真のダイバーシティ人材とは その②

「日本人は、自分たちの可能性に気づいていない。ぼくは日本人の意識を変えたいからこういう雑誌をやろうと思った。」
以下、中田英寿 「COURRIER JAPON 12月号」特集記事 一部抜粋
1.ナカタビジネスのカタチ
「誰もがハッピーになれる、誰に対しても利益が出るやりかた。 僕はそれをスマートだと思うんですね。」
2.日本の若者へのメッセージ
「本当にみんな、すごく他人のことを気にしてると思うんだよね。 けど、他人を気にしないで、まず自分が思ったことをやってみる。 それが失敗に終わろうが成功に終わろうが、結果を恐れないで。 それが先に繋がると思うし、世界規模で考えていければ面白いしね。 海外へ出て、外の世界をもっと知ってもらって視野を広げるんだ。」
3.ヒデが未来に描くヴィジョン
「俺がやりたいのは一般の人が考えるような旅じゃないからね。 何かをやるって決めたら、追い込んでやらなきゃ意味がないし。 中途半端にするぐらいなら、やらないほうがいい。 それは仕事だって同じでしょ。 俺は旅をしているけど、ただ遊んでるわけではないし。 目的をもってやっているから。」
「思っているだけじゃ意味がない。まずやってみることが大切だ。」
感想
私も一人のサッカー人として、長いこと、ヒデには注目してきた。 彼がU-17の頃からだから、かれこれ10年以上見続けていることになるだろうか。 最近、ますます彼を、また彼の生き方を好きになっている、自分に気付く。 彼のどこがそうさせるのだろうか。 私なりに、彼の魅力に繋がっていると思われる行動や思考を、「ダイバーシティ」をキーワードに分析してみた(詳しくは、私のブログ、12/26 “真のダイバーシティ人材とは その①、および 12/31 “ダイバーシティ時代の学びの姿勢を考える”を合せて参照ください)。 すると、今までに私が挙げた以下3点の内容が、彼の魅力および成功を語る上で、全て当てはまってくることに気付かされるのである。
- 「内向き」ではなく、外を向いて仕事をしている、もしくは生きている
- 自分の真のミッションについて、とことん考え抜いている (これは、上から押し付けられたり、単に誰かによって与えられたミッションではなく、現場で自分の五感を通して掴み取った生きたミッションの意味)
- 物怖じしないことと、謙虚な学びの姿勢を維持することを両立している
彼の並外れた行動力を絶賛する人も多かろう。 ただそれは彼の一面であって、必ずしもそれは彼のエッセンスではないと見ている。 つまり、彼は基本的に思考が、行動より先に来るタイプの人間で、「何でもやってみないと分からないだろう。」といったタイプの人間では決してないと考える。
但し、彼がこれまで深く関わってきたサッカーとはミスがつき物のスポーツ。 どんなに計算し尽くされた完璧なプレーを自分の中でイメージしたとしても、フィールドには球の受け手がいて、相手がいるわけなので、90分間、ノーミスで終わることは、100%ないと言っても過言でなない。 つまり、私は、「まずやってみることが大切」といった彼の言葉の奥深くに、彼の並外れた完璧主義が、完璧など存在しないサッカーのゲームと折り合いをつける過程で生み出された、彼独特の響きを感じずにはいられないのである。 これは、無鉄砲なチャレンジ精神とは、似て非なるものであると付け加えておきたい。
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